生駒里奈卒業コンサートの話
当たり前の話だけれど。
アイドルは、いつか辞めてしまう。
芸能界には、いてくれるかもしれない。
そうじゃなくても、一般人として幸せでいてくれたらそれで良いかもしれない。
でも辞めてしまったら、その人はもうアイドルじゃないんですよね。
それと同時に、アイドルが"アイドルじゃなくなる"境目なんて、誰にも決めることは出来ないとも感じる。
「私、普通の女の子に戻ります」とマイクを置いた時にその人はアイドルじゃなくなるんだろうか。
それとも「アイドルを辞める」と決意した時にもうアイドルじゃなくなってしまうのだろうか。
考えてもしょうがないことなんだけど、オタクには中々踏ん切りが付けにくい。どんなに推してようが卒業してしまえばもう目の前にアイドルとして現れることはない。前に進んで歩いていく元アイドルとずっとその場に佇むしかないオタク、という図はいつだってある。
だから卒業コンサートがあるということは本当に素晴らしい反面残酷でもある。
ここで終わり!というラインがどうしても見えてしまう。最後のライブがあるということは、どうやってもそれ以降アイドルとして歌い、踊り、なんだりを見せてくれる場は来ないのである。例外アリ
そう考えると今回の生駒里奈の卒業ライブは本当の意味での最後ではなかった。(本当の最後のライブは「全国握手会」なので)
だからなのかなぁ〜分からんけど今回の「生駒里奈卒業コンサート in 武道館」は本当にアイドルのまんま駆け抜けてったと思うし、全然サヨナラな感じがしない。
おう、またな!って感じがする。
芸能界に残るって宣言してるからなのかもしれない。
生駒里奈の人柄?というか僕らが生駒里奈に抱く勝手なイメージ像のせいなのかもしれない。
その"イメージ像"について考えている時に、ふと思い出した話がある。いつかの飲み会で、あまり乃木坂そのものは詳しくない人に「生駒里奈はアーモンドアイの持ち主だと思うよ」と言われたことがある。(多分言った張本人は覚えてないんじゃないかな〜)
元はアーモンドアイって言葉、東洋人の釣り目を揶揄した言葉でもあるのだけど…そうではなく。間違っていたら申し訳ないが「本当の闘う目、物事を真っ直ぐ捉える目」という素敵な解釈の仕方があるそうだ。(より詳しい解釈については4/24に追記しました。下記参照)
少し検索してみたところ坂井三郎さんという方が「大空のサムライ」という自身の著書で話しているそう。
なるほど、「制服のマネキン」を披露する直前に彼女は僕らにこう言った。
「きっと死ぬまで、この曲が私の代名詞でしょう」
武道館のステージでこの台詞を言った彼女は、確かに凄い目をしていた。
めちゃくちゃ真っ直ぐな目で、そんなことが言えてしまうのか。カッコいいな、このアイドルは。
制服のマネキンの一節にある「卒業を待ってみたところで何も変わらないだろう、今しかできないチョイスもあるさ」という歌詞に乗せて踊る生駒は、どういう気持ちだったんだろうか。
アイドルの真意なんてオタクには分からないけど、あの時は受け取ったものをそのまま理解して良かったんじゃないかな。
現場で見て、聴いて、感じたあの高ぶりが全てだったと思う。
今回もまとまらないし、暑苦しいし、クサい文章を書いてしまった。全部ライブ終わりに帰宅してすぐ書いたので、次の日見たら「ウッ」となること間違いなし。でも忘れたくないし!!!
7年間、お疲れ様でした。
【追記 4/24】
"アーモンドアイ"について、より明瞭なお話を聞けたので追記しておきます。
「燃えたぎっているようで澄んでる、澄んでいるようで奥に炎を宿すような、“それ”以外の感情がないアーモンドを2つ並べた感じ」
だそうです。ピッタリだぜ、彼女に。